神様は何も禁止なんかしていない



 汗ばんだ素肌にシーツの感触が心地いい。もっとも、シーツはもはや、糊がきいて清潔とは言い難く、むしろしわくちゃで色々なものに塗れている。自分と、彼女から分泌された色々なものに。だがそれでも心地いいことに変わりはなかった。
 自分と同じように裸で横たわっている情人の手を取り、ヘレナは指先に口付けをしてみた。啄ばむように。もしくは食い千切る予行演習のように。
「ん……」
 情人――ユキが気だるげにヘレナを見て、微笑んだ。今夜は少し激しくして疲れさせてしまったろうか? 彼女は自分よりずっと脆い。体も心も。それをいつだって意識しているつもりだけれど、つい、ちょっとだけ羽目を外してしまうことがある。今日のように、彼女があまりに可愛い時など。
「ヘレナさん……」
 名前を呼ばれ、ヘレナは苦笑した。二人きりの時は呼び捨てで構わないと何度も言っているのに、一向に直らない。最近、体を重ねている間は吐息混じりに名前だけを呼んでくれるようになったけれど、熱が引けばこの通りだ。もどかしさと、不思議なことに好ましさを同時に覚える。
 ヘレナの手に一本一本指を絡めたユキが、情欲と羞恥の残滓と、好意だとヘレナが信じたいものを顔に浮かべる。そしてそれらに混じった、不安と躊躇い。
「ヘレナさんは……私とこんな風になっていいの?」
「あら、どういうことですの?」
 ヘレナは優しさだと信じさせたいものを込めて、笑みを返す。
「私、ここに来てるのバイトのはずだし」
「仕事さえきちんとしてくれれば別に誰も咎めやしませんわよ」
「女だし」
「あたくしはどちらでも大丈夫と言いませんでしたかしら? もっとも、口に出さなくても……」
 空いている方の手で、ユキの胸の先の桜色を軽く弾く。敏感に声を漏らす彼女が愛しい。
「行動で十分語っているつもりですわよ?」
「ん、うん……」
 吐息混じりの返事は、安心には遠いようだった。何が引っ掛かっているのか、考える。心を読む魔術だってあるけれど、彼女にそれを使う不粋はしたくなかった。
 真剣に話を聞いてあげようかとも思ったが、少し悪戯したい気持ちを抑えられなくなった。ぐい、と抱き寄せて、上に跨る。
「きゃっ」
 ヘレナの火照りと湿りを残した場所が、ユキの腰に触れている。
「まだ語り足りなかったかしら? それなら、もう一回――」
 何度かの関係で分かってきたユキの敏感な場所に手を伸ばしながら問えば、
「あ、ふ、や、違う、違うのっ……あっ」
 必死に言葉を作りながら首を振る。その仕草にもう少しいじめたくなるが、我慢した。
「それなら」
 手を休め、上半身を倒す。二人の双丘――豊かなヘレナのそれと、平均的なユキのそれが重なった。
「どういうことなのかしら?」
 キスをする寸前の距離で疑問符をつける。視線には力がある。魔眼ではなく、もっと人間的なそれを使うつもりで、ユキの瞳を覗き込む。ヘレナの髪が垂れ下がり、二人の顔だけの空間を作り出す。その檻の中で逃げ場をなくしたユキは、つっかえつっかえ話しだした。
「だって、私……その、ついてないし」
「あらあら……」
 吹き出しそうになるのを何とかこらえた。そんなのはどうだっていいし――どうだってなることだ。
「ユキったら、ペニスと射精の感覚に興味がありますの? 確かにあれはあれで悪くないものですけれど……もし望むのでしたら、一時的にあなたに生やしてあげることもできますわよ? いわゆるふたなりですわね。ちょっと最初は気持ち悪いかもしれませんが、いずれ慣れますわ。それであたくしをいじめてくれるというのも……なかなかに楽しみですわね」
 ユキに人を止めさせるつもりは微塵もないが、戯れに男性器をつけることくらいはいいかもしれない。ユキとの情事に大きな不満はないけれど、相手の熱い肉体でこちらの肉体を満たされる感覚が味わえないのは確かに少し残念だったから。
「う、ううー、そう、じゃなくって、いや、そうといえばそうなんだけど……」
 ユキは顔を赤く染め、しかしまだ言葉を探している。男性器がないのが問題ならつければいい、それで解決のはずだ。だがそれではいけないというなら……。
「もしかして、逆にあたくしの方にペニスが欲しいのかしら? そういうことなら優しくしますわよ。もちろん、直接したって妊娠の心配はありませんわ」
「ますます違うー!」
 あげられる否定の声に、ヘレナは眉を寄せた。ユキが何を思い煩っているのかが分からない。人――吸血鬼その他も含む――の心は六百年生きても底の見えないところが魅力だが、それが難しくもある。
「ねえ、ユキ……あたくしの何が不満ですの?」
「不満ってわけじゃ……」
「じゃあ、何が心配ですの? あたくし、ユキのような若い女の子とこういう関係になるのは久しぶりですのよ? 言ってくれなければ分からないことだってありますわ」
「……だから、そういう、ことだよ」
 拗ねたように言われる。そんな表情が許されるくらいにユキには若さがある。二十二歳の肉体的にはまだヘレナだって拗ね顔をして許されるだろうが、『十三階段の魔女』としてはその拗ねを宥める側に回るしかない。
 そういうことだ、というのはつまり、ヘレナが自分で核心を口にしていながら気付いていないということだろう。
「ユキのことが分からないあたくしの察しの悪さが今後の不安ですかしら?」
 幾許かの屈辱と共に口に出すが、それでもユキは首を横に振った。
「ああ、もう、降参ですわ」
 ため息と共に、肩をすくめた。
「次に会う時までの宿題にさせてくださいまし」
 ちゅ、と小さく頬に口付けをして、ヘレナは密着させていた体を離す。ユキの上からも降りようとして、
「あら?」
 その手首を、ユキの手が掴み止めていた。ヘレナは目をぱちくりとさせ、
「…………」
 黙ってユキを見つめる。もう口に出して聞かなくてもいいだろうと判断する。ユキはヘレナに跨られたままで、柔らかな上半身を隠すこともせず、裸の胸を上下させている。
 辛抱強くヘレナは待った。やっと、上目づかいで視線が向けられる。
「……最初に言ったけど、私、女だから。ヘレナさん、女とこうなるの久しぶりって言うから」
 ヘレナは心中で小さく唸り声を上げた。そこか。ヘレナからすれば何百年も昔に通り過ぎた屈託だが、ユキにとっては随分と大きな要素らしい。ユキは普通の人間としてもまだ年若いし、普通の世界で暮らしているようだし、根が生真面目でもある。マイノリティであることに開き直れてはいないのだろう。或いは、懸想した女に拒絶された経験でも引きずっているのかもしれない。
「あたくしも最初に言いましたけれど、女の子も好きですわよ。やっぱり語り足りませんかしら?」
 そっと、ユキの艶やかな黒髪を撫でる。時間と経験を重ねる以上に効果的なことはしてやれないだろうけれど、少しでも、と思って。
 ユキの顔はあまり晴れない。それは予想通りではあった。ただ、次の言葉にヘレナは少し苛立ちを覚えた。
「……絶対、『も』は取れないんだよね」
 ぐずぐずと言い淀んで、そこを責めたかったのか?
「何ですの? バイセクシュアルは信用が置けないなんて話がしたかったんですの?」
 口調と視線が少しきつくなってしまうのを抑えられなかった。両性愛者に対するありがちな批判ではある。だからこそユキにそんなことを言われたくはなかった。悲しんだり、ましてや傷つくほどヘレナはウブではないが、恋人にそんなことを言われたくない。
 その気になれば人も魔も殺せるヘレナの凝視を受けて、それでもユキは引き下がらなかった。そういうところが、ヘレナは好きだったが。
「……だって。ヘレナさん……女も抱けるってだけで、本当は男の人の方が好きでしょ? 私じゃ不満なんじゃないかって」
 そんなことはないと何度も言っているでしょう、と睨んでやりたくなり、同時に、そんなことか、と笑いたくなり、けれどユキにとっては本当の本当に不安なのかもしれないと考えなおす。彼女の過去の恋愛遍歴を詳しくは聞いていないが、同性と肉体関係を持つのは初めてだと言っていた。それならばなおのこと、なのだろうか?
「お馬鹿さん、ですわね」
 微笑みと共に鼻の頭にもう一度キス。けれどユキは頑なだった。拘束するようにヘレナの手首を握る力を強める。それは縋りつくようでもあった。
「誤魔化さないでよ、ヘレナさん。ヘレナさんやマテウスさんにとっては、同性と恋愛することも嗜みの一つかもしれないけど……私は、本気なんだよ? こういう風にしか人を好きになれないんだよ? ねえ、ヘレナさんは……本気になってくれてるの?」
 痛々しいほど真摯で、禍々しいほど欲深い瞳で問われる。それに押されてヘレナは自分を省みる。自分は女性を愛することができるという言葉に嘘はない。けれど、男性の方が好きなのだという指摘は……どうだろう。
(ああ、先ほどあたくしは――)
 ユキに男性器がないことを、ごく自然に残念に思った。華奢で柔らかな躯に触れられることを差し引いても、残念に思った。その延長線上に、確かに、引き締まって少し硬く太い腕に強くかき抱かれたいという欲望も、ある。
 自分は、褥では男性の肉体の方を強く希求している。
「……認めますわよ。ユキの言うとおり、あたくしは肉体の交わりの際には男の方が好みですわ」
 それは、ユキにとっては残酷な認め方だったのかもしれないが。そしてヘレナは嘘は得意だったが。それでも正直に告げた。
「けれど、断じて恋人を、ベッドでのパートナーとしてのみ見たりはしておりませんわ」
「……でもこういう時は不満なんでしょう」
「互いに不満の一切ない恋人関係なんて逆に不健全ですわよ。交わりの時も、ベストでなくとも十分にあたくしは楽しんでおりますし、それ以外の時はそれはもう……ああ、何を言わせますの」
 少し握られる力の緩んだ手首をくるりと回し、ユキの手首を握り返す。魔女の鋭敏な感覚には、確かに脈が感じられる。この心配性で可愛い人は、どうしようもなく生きている。
「ヘレナさんのおもちゃじゃ、やだよ?」
「そこまで悪趣味ではありませんわ」
 やっと、ユキが少し表情を緩めた。それにほっとしている自分に、ヘレナは内心で苦笑した。まるで良いようにされてしまっている。仕方がない、自分は大人の男と子供の女に弱いのだ。
「じゃあさ」
 ユキが腰の後ろから背中に手を這わせてくる。盲人が対象を確かめるようなその愛撫に薄くぞくりとする感覚を覚えながら、ヘレナは表情で続きを促した。
「じゃあずっと一緒って約束してくれる?」
 呼吸が凍った気がした。もちろんヘレナはこの程度で息を詰まらせたりはしない。平然とした表情のまま、ただ、言葉には詰まった。
 普通の恋人同士なら二つ返事でうなずく他愛のない約束だったかもしれない。だがヘレナは魔女だった。契約は重視する。たとえ恋人とのピロートークでも、いや恋人とだからこそ、嘘の契約はしたくなかった。
 言い淀んだヘレナに、ユキが言葉を重ねる。
「ヘレナさん? ねえ、本当に、私のこと好きでいてくれるんでしょう? 本気なんでしょう?」
 ヘレナは力ある魔女だ。誰であれ、普通の人間とはいずれ別れる。そのヘレナに本気を求めるなんて、ああ、やはりこの娘はどんなにか欲深いのだろう。
「ほら! やっぱり捨てるつもりなんだ!」
 握られたままの手首に力がこめ直され、背中にも爪が立てられる。そのどちらも、ヘレナの肌を傷つけるには程遠く、しかしユキの激情を伝えるには十分だった。
 近い距離にいるほど、感情は伝染する。二人の体は零距離で、心もそれなりには近かった。そしてヘレナは生きてきた年数と人と言う出自を考えれば奇跡的なほど感情豊かだった。
 ユキの頭の横に叩きつけたヘレナの手のひらは、ベッド全体を震わせた。反射的にユキは身を縮め、すぐに屈辱の表情で睨み返してくる。それを見下ろして、ヘレナは断頭斧のように言葉を振り降ろした。
「あたくしが何人の人間と別れてきたと思ってますの? あたくしにとってヒトの恋人ははなから別れるためのものですわ!」
 ユキはしかし黙らない。
「だったら、魔法使いでも吸血鬼でも長生きする仲間で、股にも立派な物のついた奴と結婚すればいいじゃない!」
 叫びあいの次は、激しい沈黙がきた。互いに憎しみあっているとしか思えない表情で、視線をぶつけあう。二人の間の空気が軋む音が聞こえてきそうだった。
 だが、分かっていたことだ。普通のヒトは十三階段の魔女より脆い。目に涙を浮かべたのはユキの方だった。ヘレナから視線を逸らし、横を向く。ヘレナの手首と背中に喰い込む指も力を失った。ありありと後悔を顔に浮かべている。彼女はいったいどこからの言動を悔やんでいるのだろうか。それも迷っているかもしれない。
 しかし、ヘレナも激しく悔やんでいた。だから自分から口を開いた。
「……口が滑りましたわ、ごめんなさい」
 行動は取り消せないということは重々知っている。言葉においてそれを痛感することが多いとも知っている。それでもなお、こうして失敗をしてしまうのは何故なのだろうか。言葉は魔術であり、そしてヘレナは魔術に熟達していて、それなのに。
 ヘレナの声に、ユキは濡れた瞳を上げ、小さく首を振った。
「いいの。それがヘレナさんの本音なんでしょ。分かってるよ、分かってたよ、ヘレナさんは魔女だもん、私のわがままだよ。困らせてごめん」
 本音ではあるかもしれない。だが、理想だとは思わないでほしかった。何人ものヒトと愛を交わし、そして別れを繰り返した。そんなのは、初めから別れるものと覚悟するようにならなければ耐えられなかった。いつも捨てられる気分だったのは、現世に取り残される気分だったのは自分の方だ。だがそれを言うことはヘレナのプライドが許さなかった。そういうヒトとの関わり方しかできない生き方を選んだのは自分なのだから。
 自分は何ができるのだろう? この、幼く、脆く、しかし炎のように激しく愛を、ヘレナを求める少女に。
「ただ、私と別れる時は……できれば、あんまり辛くなく別れさせてほしい」
 小さく鼻をすすりあげ、細い声で告げられた願いは、強大な魔女に対してするものとしてはあまりにささやかに思えた。
「……あたくしと一緒に過ごしてよかったって、思わせてさしあげますわ」
 ユキの左手を持ちあげ、その薬指に軽く歯を立てる。この指の魔術的な意味をユキに話したことがあっただろうか。話していなくても、覚えていなくても構わない。
「……ありがと、ヘレナさん」
 名前通りの笑みをユキは浮かべた。はかなく溶け、しかし重く長く残り、人を殺すほど冷たく、それで洞を作れば内部は暖かく、白く美しく、すぐに汚れて醜くなる、そんな笑みを。
(多分、あたくしはこれだから……)
 これだから、この少女のことが。
「当たり前ですわ、ユキのことが好きなんですから」




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