友人以上恋人以上



「ねえ、ネッサ……」
 お嬢様の部屋で二人、ゴロゴロと雑誌など見ていると、不意に声をかけられた。幾つか離れた部屋からはシスのピアノの音がする。
「ふぇれ……レナ、何ですか?」
 最近人気のチョコラータ専門店の紹介記事から多少苦労して目を移すと、お嬢様はベッドの上に座って、呼びかけておきながらまっすぐ私を見ていなかった。
 これはさぞかし言いづらいことをおっしゃるのだろうと幾つかの可能性(勿論その多くはバッドニュースだ)を頭に浮かべていると、お嬢様はそのままモゴモゴと口を開いた。
「ネッサは、そのぉ……キス、したことある?」
「へぁ?」
 思わず変な声が出た。彼女は考え方が柔軟だが、それは時折発想が私の死角から飛んでくるということで、こんな風に驚かされることも少なくない。
 それにしてもキスときたか。字義どおりに解釈すればその範囲は広いけれど――
「友愛や親愛のものなら勿論ありますが、レナが聞きたいのはそれらではないのですね?」
「うん、まあ……」
 斜め下を見て、クシャクシャとハネっ毛の先をいじっているラベンダー。あの長さに、肌の色にあった色、丁寧にケアすればさぞかし綺麗になるだろうといつも思うのだけれども、多分そうなったらそうなったで寂しいのだろう、私は。
 座りなおして、ちゃんと答える。
「レナもご存知でしょう? 私は男性と真面目にお付き合いした経験がありませんし、そういう関係にない方と口付けするほどルーズじゃありません」
「やっぱりそうだよね……」
 少し落胆の表情を浮かべられた。何とはなしに、失礼なリアクションをされた気がする。その不満をため息と共に吐き出して、
「やれやれ、突然何かと思えば、恋愛映画でもご覧になられたんですか?」
「いや、ううん、そうじゃなくって」
「じゃあ何故こんなことを?」
「えっと……」
 とことん歯切れが悪い。まどろっこしくなって、カマをかけることにした。多少不愉快なカマではあったが。
「ユーに迫られでもしたんですか?」
「ち、違う違うっ、ユーじゃない!」
 その慌てた返答に若干の安堵を覚えつつ、カマかけが当たったことにニヤリとしてしまうことを抑えられなかった。
「ユー『じゃない』ということは、他の誰かに?」
「あ……」
 ハッと口を抑えるけれど、ラベンダー、口から出た言葉に紐は付いていないのですよ。
「……その。ライムスと、今度遊びに行くことになって」
 ライムスか。妥当と言えば妥当な所だった。
「二人で遊びに行かれることくらい今まで何度もあったじゃないですか」
「それはそうだけど、何だか、今回はライムスから誘ってきて、しかもちょっと雰囲気が違うって言うか……」
 真面目な意味での『デート』の香りをかぎ取った、と。お嬢様の感受性は鋭い。ライムスはその気なのかもしれない。
「それでもOKしたということは、レナもライムスを憎からず思っているのでしょう? ならば良いではないですか、そうなったらなったで」
「でも……なんだか、いきなりライムスと、って考えると不安で……」
 頬を染めるお嬢様を、新鮮な気持ちで眺めていた。こんな臆病な面があったなんて。臆病になるということは、多分、お嬢様も本気だということなのだろう。
 私よりお嬢様の方が本格的な恋愛を始めるとは、ということが意外でもあり、少し先を越されたという思いもあり、微笑ましくもあったのだが、続く言葉で呆れてしまった。
「で、ネッサなら、練習させてくれないかなって……」
 咄嗟に言葉が出なかった。からかっているのだろうか? けれどいつも冗談を言う時の、夏の木漏れ日のような瞳ではなく、最初から一貫して恥ずかしそうでためらいがちな表情のままだ。
 すう、はあ、と何度か呼吸をしてから、からかわれていて笑われるなら仕方ない、と真面目に答える。
「あ、あのですね、レナ。レナだって初めてでしょう? だったら――」
「初めて、だから、だってば」
 途中で遮られる。同じ前提から出発しているのに、続く言葉がだったらとだからに分かれるなんて。けれどどう考えたって、「だから」の方がおかしいと思う。お嬢様はきっと動揺しているから、考え方が少しおかしくなっているのだろう。ここはしっかり者の私が正してあげなくては。
「いえ、『だったら』、でしょうレナ。理想を言えば初めては好きな方とするべきです。その機会が来たのに、何だって私としたがるんですか」
「……そうだよね、ネッサも初めてが私とじゃ嫌だよね」
 やっぱり何だかずれている。どうして私が初めてかどうかが出てくるのだろう?
「私が初めてかどうかが理由なんじゃなく、お嬢様が初めてだからでしょう。いいじゃないですか、ライムスはいい人ですよ。ちょっとくらい無作法をしても笑ったりする人じゃないってお嬢様もご存知でしょう? そんなに心配なら、パソコンでキスのコツでも調べれば十分だと思いますよ」
「…………」
 黙ってしまわれた。ぐうの音も出ない、ということだろうか? しかしその顔を窺えば、納得には程遠く、何かもやもやが残っている様子だった。
 だが、いい加減私も面倒になってきていた。お嬢様がどうしてもそのもやもやを話したければ話してくれるだろうし、そうでなければここまでだ。
 雑誌に目を戻す。美味しそうな褐色の写真が並んでいる。今度お嬢様と一緒に――いや、お嬢様がライムスと付き合い始めたら、私と遊びに行く回数も減るのだろうか。それは少し残念ではあった。代わりに私はユーと、と言いたいところだが、どうもあの方には子供扱いされているようで仕方ない。シスでも誘おうか……。
「………だもん」
「はい?」
 お嬢様が小さく何かを言った。聞き取れなくて尋ね返す。
「ネッサとの方が安心できるって言ったの!」
 大きな――と言うほどでもないが、さっきまでのモゾモゾしたしゃべり方とは大違いの声にびっくりして弾かれたようにお嬢様を見ると、まるで怒ってるみたいに眉を吊り上げて私を見つめて、いやいや睨んでいた。
 今度こそ何も言えなくなって目を丸くしている私に、お嬢様は少し声のボリュームを落とし、けれどやはり怒ってるような早口で言葉をつなげる。
「そりゃファーストキスは好きな人とするのが妥当だしライムスとならその、まあ、って思うけど、でも、考えただけでドキドキして、しすぎて、怖くて、怖いキスって、本当にいいのかなってなって、もっとほっとしながらできたら、初めてはそっちの方がいいなって思って……それなら誰かなって考えたら……」
 段々とボルテージは下がり、そこでお嬢様は黙ってしまわれた。続きは言うまでもなかったが。
 私を安心できる相手と思ってくれる、という点ではもちろん不快ではない。不快ではないから、かえって私は言葉に困る。
「お嬢様……その。初めては、そのようなドキドキも、何と言うか大事な要素で、あり……」
 ああ、ほら、しどろもどろになってしまった。
 柳眉を下げて、心なしかくせっ毛まで勢いをなくして、お嬢様は細い肩をさらに縮めている。まるで叱られている幼子のようで、これは私が叱っているのだろうか。叱られるようなことを、彼女は言ったのだろうか?
 私はどうなのだろう、と考える。私自身の初めてのキスについて。具体的に誰と、という予定は当然立っていない。でも、いつか誰かとはするだろう。できれば、好きな人と。その時、どう思うんだろう。お嬢様のように不安になるのだろうか? そりゃあ、多少はなるはずだ。でも、だからってもっと安心できる人――それが誰かは置いておく――と初めてを済ませておこうなんては、思いやしない。
(……本当に、そうでしょうか?)
 内心での断言の後に、疑問符が続いた。だってほら、目の前で彼女はこんなに心細げだ。あのラベンダーが。牧羊犬のように人懐こく活発で、何だってやってみようとするような彼女が。ライムスとは子供の頃からの気心の知れた仲だろうに、それでもこんなに思い煩うものなのか。
 それなら、私が、いつか誰かとするとして――本当にその時になったら、もっと不安になるのかもしれない。ドキドキするのがファーストの醍醐味、自分で言ったそれに偽りはないと思うけれど、でも、不安なままでしたいかと言うと、そう、認めよう、私だってあまり望ましいものには思えない。
 それなら、それなら。私にとって望ましいファーストキスとは、その相手とは。安心できる人、気の置けない人、なのだろうか。家族の他でそんな相手は、一人しか思い浮かびやしなかった。色々なことを勘案するに、その人は申し分ない、かも、しれない。一番いい所は、既に合意を得られている、互いの利害が一致している点で――
(いやいや、何を考えているんですか私は!)
 いくら動揺してるからってなんてことを!
 まさかこの私が!
 お嬢様とファーストキスを交わしあうなんて!
「…………!」
 頭の中ではっきり言葉にしてしまって、改めてその行為のおかしさに気付く。かぁっと血が上るのがありありと分かった。そもそも、私たちは女同士ではないか。申し分がありすぎる。同性愛者を差別する気はないが、私もお嬢様もそのケはない。ない、のに。
 一番おかしいのは、その行為を可能な限りリアルに想像しても、嫌悪感が全く湧いてこないことだった。
 こんなの絶対おかしくて、しかしおかしいという違和感を覚えることすら困難なほどしっくりとそれは私に馴染んでいた。私は自分の頭の中の存在と現実の存在に差異がないか確かめるように見つめる。
「……えっと、ネッサ。その、そこまで怒るとは思わなかったから、ええと」
 気付けば、お嬢様が不安を通り越して焦った様子になっていた。激怒しているように見えるくらい、私の表情は険しくなっていたのだろうか。顔色は、ああ、さぞや赤くなっていることだろうけれど。
「うう、私が馬鹿なこと言ったからさ……」
 その弁解が、妙に、頭に血が上った私の癇に障ってしまった。
 馬鹿なこと、と言ったか?
 馬鹿なこととしてあんなお願いをして、馬鹿なことに私はこんなに動揺して、私のこの感情は馬鹿なことで――
「馬鹿にするつもりでおっしゃられたんですか?」
「そ、そういう意味じゃないよ!」
(ええ、ええ、そうでしょう。分かっていますとも)
 分かっているから、腹が立った。腹が立っている自分にすら、腹が立った。この心の焦げ付きには、まだ腹立ち以外の名前を与えたくなかった。
 私は、雑誌を半ば放るように置き、立ち上がってベッド上のお嬢様に歩み寄った。普段並んで立っている時よりも幾分私の方が見下ろす体勢。
「何、かな……」
 きょどきょどとした上目遣いのお嬢様に、また新しい衝動がもやもやと膨らんでくる。私は決していじめっ子なんかではないはずなのだが、どうも今日は、というかさっきから、変だ。変だと分かっていて、止められない。
 じっと見つめてやる。居心地悪げに目を泳がせ、落ち着きなく指を組み替えている。私はそんなお嬢様の整った顔の、中でも唇に視線を落とす。ユーが来てからしばらくして化粧をするようになり、薄くリップが塗られているのが分かる。もっとも、このリップはもうユーのためのものではなく、ライムスのためのものなのかもしれない。だがいずれにせよ、今それを見ることができているのはこの私一人だ。
「ネッサ?」
 存分にためを作ってから、私は手を伸ばした。少しぱさつくお嬢様の髪の毛に、無遠慮なくらいの率直さで触れる。
「いいですよ」
「え?」
 理解できずに目をしばたかせる彼女に、分かりやすく言い直してやる。
「予行練習、私でよければお相手しましょう」
 まるで決闘の申し込みか何かのような言い方になったが、事実大して変わらないのかもしれない。
「え、ええっ!? だってローザ、さっきあんなに嫌がって、今も怒ってるみたいで」
 あぁ、と思う。そもそも、不安なくするための物だったのだ。このままの雰囲気でするのは、よろしくない。
「怒ってないですよ」
 くすり、笑んでみせる。こんなにおかしくなった私では完璧には無理でも、できるだけ普段の私のように、お嬢様を安心させられるように。
「ただ、ちょっと色々考えていただけです。考えた結果、レナとならいいかな、という結論に達しました」
 レナとなら。その文節を告げずにはいられなかったが、さりげなく言う程度の自制心はまだ残っていた。
「なので、しましょう、キスを」
 意図せぬ倒置法で告げる。
「ロ……ネッサ……」
 お嬢様は私の名を呟き、黙り込んだ。
 耳に静寂が滴り、満ちる。
 しどけなく足を崩したまま、驚きに目を丸くして、今度は彼女が何事かを考えている。
 私はタイミングを逸したのだろうか。やっぱり止める、なんて言われるのだろうか。そうなったら、それこそ、からかわれたより笑い者だ。お嬢様は決して私を笑わないだろうが、私が私を散々に笑う。別にそれが怖いわけではないけれど。
 さっき散々焦らした罰だと思って、おとなしく待った。私の手はお嬢様の髪を軽く握ったまま、弄り方を忘れたように、或いは絡め取られたように動かない。以前お嬢様がまたぞろ外国のアニメで覚えた、「髪は女の命」なんて言葉を使っていたのを思い出す。これがあなたの命なら、弄ることも手放すこともできなくて当然だ。
 やがて、そろそろと、お嬢様の手が持ち上げられた。
「ネ、ネッサがOKしてくれるなら」
「決まりですね」
 どこか躊躇いの残る言葉に、私は間髪いれず返す。持ち上げられた手を、曖昧に差し伸べられたのだと理解して握る。そのまま、ベッドの上に登った。よりによってベッドでなのか、なんてことが頭の隅をよぎる。
 お嬢様がずりずりと下がって作ったスペースに腰を落ち着けて、互いの顔を見つめる。
「で、レナはする方の練習をしたいんですか? それともされる方? そちらに合わせますよ」
「え、あ、うーんと……される方、かな……?」
「まあ、ライムスも男の子ですからね、いざとなればリードしてくれるでしょう。ということは今回は私からすればいいんですね」
 私が冷静さを装って話していると、お嬢様も次第にいつものペースを取り戻しつつあった。いいことだ、多分。
「覚悟はしていましたが、私の方が難易度が高いですね……」
「悪いねえ」
「近いうちにチェーナ(ディナー)を腕によりをかけて作ってくれることで手を打ちますよ」
「さすが社長令嬢、太っ腹!」
「メヌに納得できなかったら何回でも作ってもらいますから」
「さすが社長令嬢、厳しい……」
 少しは覚悟が定まった。無駄話はもういいだろう。
 何かを待つように私たちは見つめ合う。多分、呼吸を合わせていた。普段は、呼吸なんてずれていても気にしないか、妙にピタリと合うのに、今は少し手間取った。それでも何となく、今かな、という瞬間を感じられたのが不思議だった。
「ラベンダー、目、閉じてください」
「その呼び方、」
「いいじゃないですか、こういう時くらい」
「……そうだね、ローザ」
 ラベンダーが、大きな瞳を瞼の裏に隠す。その素直さが可愛かった。
 もはや状況は私に一任された。どう行為に及ぶかは私の自由になる。行為に及ばないで逃げてしまうことすらできる。こんな重圧を男性は感じなければならないのなら、彼らへもう少し敬意を払ってもいいかもしれない。
 リードしなければ、と頭で考えるがそれはどこか真っ白な穴の中に落ちて行ってしまって、どうすればいいかさっぱり分からない。しかし私の体は案外と積極的に出来ていた。無風状態の脳味噌を放置し、ラベンダーの耳の下あたりにそっと手が伸びる。
 こんな風に体が動くのは相手がラベンダーだからだ、と考えるのは危険思想に思えて、これはラベンダーのための練習なんだと繰り返す。出来るだけ上手に、かつ現実的にしてあげなければ。そういう意識はあったのだけれど。
「……じゃあ、しますよ、ラベンダー」
「ん、きて」
 こんな確認を取ってしまうようでは不粋にもほどがあった。しかも声が震えているのが自分で分かった。情けない、ヴァネッサ・ヴィットーリアともあろうものが!
 息を一つ、音を立てないように深く吸って深く吐く。OK、やりましょう。
 ゆっくり顔を近づけていく。どんなにゆっくりにしたって、その距離はすぐにゼロに近づく。健康的な色のラベンダーの肌は肌理が細かくこの距離でも荒れ一つ見当たらない。緊張か羞恥かほのかに朱に染まっているのは、きっと私だって同じだ。鼻がぶつからないよう、少し顔を傾ける。
 最後に一瞬だけ、嫌悪感などではない何かで躊躇い、そして。
「ん……」
「………っ」
 純粋にやわらかいということはやわらかいとしか言いようも思いようもなくて、マシュマロのようなんて陳腐な比喩でも、もっと凝った文学的表現でも、やわらかさの核は表せないのだろう。ただ、やわらかかった。もう一言付け加えるなら、ぞっとするほど心地良かった。
 胸の奥で心臓が爆ぜそうに脈打っていた。唇から、私たちの体温が混ざり合う。もしかしたらもっと別のものも。
 いつまでこうしていればいいのか分からなかった。いつまでこの距離でラベンダーを見つめていいのか分からなかった。ゆっくり五秒数えたら離れよう、とリミットを決める。
 uno。ラベンダーの目はギュッと瞑られている。もっとリラックスしてほしかった。頬に当てた手で撫でる。まだ足りない。
 due。空いていたもう片手をラベンダーの背中に回して、軽くなだめるように叩く。抱きしめる姿勢は少し恥ずかしく、でも私がリードしなきゃ。
 tre。ラベンダーの瞼が、顔つきが緩んだようで、嬉しくなる。唇の感触がもっとやわらかくなって、私は目がちかちかする。
 quattro。知らず止めていた息が苦しくなって、鼻で小さく空気を吸う。ラベンダーの香りが満ちて、慣れた香りのはずなのに脳の奥が痺れた。
 cinque。もう離れなきゃ。不自然じゃないようにしなきゃ。それがとても残念だったのは、とても奇妙なことで、でも彼女に恋する男性のロールプレイとしては正しいから問題はない、でしょう?
 sei。リミットを過ぎてまだ離れられない。こんなにゆっくり数えているのに。
 sette。ラベンダーがピクリと震えて、その瞼が僅かに開かれ出して、
「!」
 私は慌てて顔を、手を、体を、離した。ラベンダーに私がどんな顔でしているか絶対に見られたくなかった。きっと、物凄く恥ずかしい表情になっていたから。
「ローザ……」
 完全に開かれたラベンダーの目は少し潤んでいるようだった。それで見つめられていると、心臓の脈打ちが収まらない。
「い、いかがでしたか」
 沈黙に耐えられなくなって聞く。ラベンダーは静かに自分の唇に指を当てた。自分で聞いておいて、少し色っぽい仕草で評価されている様に緊張する。
「うん……なんか……よかったよ」
 何とも曖昧だったけれど、とりあえず好印象だったらしいことにほっとしたし、嬉しくなった。ただの練習なんだから、嬉しくなるのもおかしな話――いや、いいの、か? まだ頭が変だ。いや、する前より変になってる。ラベンダーのことしか見えない、考えられない。
「ローザに頼んでよかった」
 そんな言葉に、もっと嬉しくなって、私に尻尾がなくて良かったと思った。ラベンダーの表情が私のおかしさとは違う、明朗とした笑顔であっても、嬉しかった。
「まあ、こんなものですよキスなんて。これで――」
 ライムスとする時も、と続けようとして、
「ああっ!」
 ラベンダーの上げた驚愕の叫びに遮られる。ラベンダーの視線は私を通り越して背後の扉に向かっていて、私も反射的にそちらを振り向き、
「シス!? こ、こここここれは」
 そういえば大分前から、ピアノの音色が消えて沈黙が感じられるようになっていたことに今更気付く。
「分かったわ……」
「分かってません、分かってませんよ!」
「いいえ分かったわ、隠さなくていいわよ、私は気にしないから。むしろ協力するわ。ああ、ただユーが残念がるでしょうね……」
「話を聞けー!」
 真っ赤になって立ち上がるお嬢様を見るに、もう私たちが今のような行為をすることはなさそうで、それが少し、ほんの少しだけ惜しかった。




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